福 岡 小 学 校
  地 域 紹 介


古くからのお宮   言い伝え   町名の由来   むかしばなし   六十の市


福岡小学校周辺に伝わる昔話を集めました。

山ぎわのきつね【小浜】  お月さまときつね【老津】  鉄砲きいさ【鉄山】

えんち坊主【橋良】  小さな浜辺【藤沢】  ささおどりの話【小浜】

柱の観音様【橋良】  潮音寺【小池】  鍵田の由来【鍵田】

陸軍の町福岡と太平洋戦争【福岡】

   この話はのう、東小浜のあたりを、『山ぎわ』と言っとった、昔の話じゃ。
   わしが、まんだ子供んころ、ばあさまが、よう聞かしてくれたもんじゃ。山ぎわちゅう名の通り、小
  高い丘の近くの静かな村じゃった。丘の雑木林のあちこちに、きつねがあなをほって、たくさん住みつ
  いとったそうな。村人の数よりも、きつねの数の方が多いぐらいだと、ばあさまが言うとったぞ。

   夜になると、きっねどもが、えさをあさって、そこいらを歩きまわったもんじゃ。あっちでも、こっ
  ちでも、きつねの鳴く声が聞こえるし、夜道を歩いとって、きつねに出会うことなんぞ、しょっちゅう
  だったそうな。性(しょう)の悪いきつねは、百姓家のにわとりをぬすみて来て、ときにゃあ、百姓に
  見つかって、こん棒でしりをぶったたかれたり、石をぶっけられるやつもおったんじゃ。こういう
  きつねは、またしかえしに来て、悪いことをするしのう。どうも、きつねと人間は、仲が悪かったよう
  じゃ。

   ある年のこっちゃ。夏も終わりに近いころにのう、八助じいさまのうちで寄り合いがあったんじゃ。
  「みなの衆、よう来ておくれやした。今晩の寄り合いはのう、ほかでもない、秋祭りのことじゃ。まあ、
   毎年のこったで、決まっとるようなもんじゃが、いっぺんはわしらで話し合っとかんと、かっこうが
   つかんでのう」
   餅投げの餅をどんだけつくか、米をどうやって集めるか、若い衆に何をやらせるか、若い衆に酒をど
  んだけ出すか、村芝居のだしものは、何にするか………。いろんな事をしゃべりあっとるうちに、夜も
  ふけてきてのう。話もあらかたすんで、みんながお茶を飲んどるとのう、八助じいさまのうちの表戸を、
  トントントントンとたたくもんがあるんじや。
  「戸は、あくで、おはいりとくれましょう」
  と、八助じいさまが言うても、中へ入ってくるわけでもねえ。戸の板の破れたとっから、表の人のちょ
  うちんも見えたんじゃと。また、トントントントンと戸をたたくでねえか。
  「やれやれ、世話のかかるお人たのう。」
  と、八助じいさまは、しょうがねえから立ち上がって、
  「こんな夜ふけに、何の用だのう。」
  と、言いながら表戸をあけると、ちょうちんの明かりが、すうっと消えたんじゃ。人影も何もねえ。
  「山ぎわの悪きつねめ、また、おらをからかいに来おったな。やーい、山ぎわのきつね。わりいことを
   しゃあがると、しょうちせんぞ!!」
  八助じいさまは、石ころを五つ六つ、暗闇ん中へ投げっけてみたが、手ごたえなんぞねえ。この話を聞
  いた、村の若い衆んとうが、かんかんになっておこってのう。
  「山ぎわの悪きつねども、ふざけた事をしゃあがる。八助じいさまをからかったと。若いおらんとうが、
   こいつをだまって見すごすわけにゃあいかんぞ。なあ、みんな、おらんとうでじいさまの敵をうって
   やるべえ。」
  「そうしゃ、そうしゃ。やるべえ。」
  「どうしゃ。とんがらしで、きつねの穴をいぶしてやるべえか。」
  「そいつああ、おもしろいぞ。」
  若い衆はのう、話が決まりゃあ、やるこたあ早い。若い衆の頭(かしら)は、伝助じゃった。昼間の間
  に、麦からの束(たば)ん中へ、とんがらしを、どっざりこんと、詰めこんだものを、たくさん作って
  おいた。きつねどもの寝こむころあいをみはからって、若い衆んとうは山へ出かけおった。
  「やい、声を出して、きっねに気どられるなよ。」
  頭の伝助はたいまつを持って、若い衆んとうをさしずした。とんがらしを詰めこんだ麦からを、あっち
  こっちの穴につっこんで、「一、二、の三!!」で火をつけたんじゃ。とんがらしのいぶる煙が、きつね
  の穴ん中にもくもくとはいっていきよった。こんな事をされちゃあ、きつねども、たまったもんじゃあ
  ねえ。
  「こほん、こほん、コンコンコン。」
  「こほん、こほん、コンコンコン。」
  きつねの野郎、のどが痛くなるやら、目から涙がこぼれるやら、次々と、穴からとび出してのう、山の
  奥へ、走るわ、走るわ。伝助は、勝ちほこって、
  「ざまあみされ。八助じいさまをからかった罰だぞ。これからも、わりい事をしゃあがると、この伝助
   さまが、許さねえぞ!!」
  と、大声でどなりちらしたと。

   伝助んとうは、いい気持ちになってうちへ帰ったが、あくる朝起きて、表へ出て、びっくりこいた。
  伝助をはじめ、山へとんがらしをいぶしに行った若い衆のうちの前に、きっねのくそが、どっかりこん
  と、こいてあったんじゃ。それも、五ひきや十ぴきじゃあねえ。何十ぴきというきつねのくそだった。
  見事に敵を打たれてしもうた。頭にきた伝助は、吉田の宿の知り合いの猟師から、火縄鉄砲を借りてき
  てのう、ドカンドカンと、きつねのおる山ん中へ、鉄砲玉をぶちこんでまわったんじゃ。
  さすがのきつねも、飛び道具にゃあ、かなわん。それからは、わりいことをせんようになったと。

   めでたし、めでたし。

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   むかしむかしの話じゃ。老津(おいつ)の村にのう、二ひきの兄弟きつねが住んどったと。この二ひ
  きはのう、ずっと前に、親きつねが死んでしもうて、みなしごのきつねになってしもうたのじゃ。きつ
  ねというやつは、どのきつねもいたずら者で、夜になると穴(あな)から出てきて、村の百姓家のにわ
  とりやうさぎをぬすんで食べたり、畑の苗(なえ)の上を走りまわって、苗をめちゃめちゃにしたり、
  悪さばっかりしおるのじゃ。この二ひきのきつねものう、悪さばっかしおるが、兄弟の仲はとってもよ
  かったと。兄ぎつねは弟ぎつねをかわいがるし、弟ぎつねは兄きつねの言うことをよく聞いたそうな。

   ある日のことじゃ、弟きつねが病気になってのう、高い熱を出して、ぐったとりして、穴の外にも出
  られんようになりおった。兄ぎつねは、心配でたまらんので、弟きつねの顔をペロペロなめながら、そ
  うじゃ、ちょうど親ねこが子ねこの体をなめてやるようにのう。
  「どうしたら弟の病気がなおるかなあ。人間なら、薬というものを飲んで、病気を治すのだが、おれん
   とうは、人間に悪さばっかやっとるで、人間にたのむこともできんし、困ったなあ。」
  と考えこんどるうちに、ふと、いい事を思いついた。
  「そうだ。お月さまにたのんでみるか。お月さまは、いつも天の高い所から下界(げかい)を見てござ
   るで、何でも知っておいでだ。お月さまにお願いしてみるか。」
  「いや、待てよ。お月さまは、おれんとうが、百姓家のにわとりやうさぎをぬすんどるのも、ごぞんじ
   だろうなあ。そんな悪さをするやつの言うことは聞いてくれんだろうなあ。」
  兄ぎつねは、ほっと、ため息をついて、また考えこんだ。
  「そうだ。これからあ、決して悪さをしませんと約束すりゃあ、聞き入れてくれるかも知れん。悪さが
   できんのはつらいが、弟のためだ。お月さまに約束しよう。」
  夜になって、空にお月さまが美しいお顔を出されると、兄ぎつねは、穴からぴょんと飛び出て、お月さ
  まの方に向いてのう、ぎょうぎよくすわったんじゃ。きつねにしちゃあ、めったにない神妙な顔つきを
  して、ぴょこんと頭を下げおったんじゃ。
  「お月さま、おれんとうは、今までずいぶん悪さをしてきました。そんでも、これからは、決して悪さ
   をしねえようにしますで、弟の病気をなおして下され。おねげえしますだ。」
  お月さまにおいのりして、兄ぎつねは穴にもどって、弟きつねの横で、うつらうつらとねむりこんだん
  じゃ。そうするとのう、お月さまのお声が兄きつねの耳に聞こえてきたのじゃ。
  「これこれ、きつねよ。お前は、これからは決して悪さをしないと、わしにちかったな。悪さをしない
   のなら、弟おもいのお前の願いを聞きとどけてやるぞ。」
  兄ぎつねはとびおきて、穴の外へ飛び出て、またお月さまの方を向いてかしこまり、ぴょこんと頭をさ
  げて、
  「お月さま、ありがとうごぜえます。お約束は、きっと守ります。」
  と、お礼を言うて、また、穴にもどりおった。弟ぎつねを見ると、気持ちよさそうにすやすやとねむっ
  とるんでのう、うれしゅうなって、
  「気分がようなったようだな。どれどれ、熱が下がったか見てやろう。」
  弟きつねの額(ひたい)をペロペロなめてみた。
  「こりゃあ、いいあんばいだ。熱がすっかりさがった。」

   それからはのう、すっかり元気になりおって、兄弟そろって、山や森を走りまわって遊ぶようになっ
  たんじゃ。里へ出ると、ひょっとして、悪さをするかも知れんで、兄ぎつねは弟ぎつねに、
  「里に出るなよ。うっかり悪さをすると、お月さまにうそをついた事になるでなあ。」
  と言いきかせたんじゃ。ある日の夕方じゃった。穴の中で、弟ぎつねは、兄ぎつねに話しかけた。
  「のう、兄ちゃん。兄ちゃんは、おっかさんをおぼえとるかん。」
  「そりゃあ、おぼえとるぞ。お前は、赤ちゃんだったで、まるきり覚えとらんだろうが、おれは、ちゃ
   あんと覚えとるぞ。」
  「どんなおっかさんだった?」
  「やさしくて、こわいおっかさんだったぞ。いつもはとてもやさしいが、悪さをすると、ほっぺたをた
   たくんだ。病気で死にそうな時になあ、お前んとうが、悪さをすると、死んでからでも、しかりに行
   くぞって言っとったぞ。」
  「そんでも、今まで悪さをしても、おっかさんは、こなんだぞ。」
  「おっかさんは、天の上のあの世から、おれんとうに罰(ばつ)をしとったと思うなあ。にわとりをぬ
   すんだ時おれもお前も、人間のしかけたわなにしっぽをはさまれて、けがをしたろう。あれはきっと、
   おっかさんの罰だぞ。にんじん畑で、かけっこをして、にんじんの芽をふみつぶした時に、カラタチ
   のとげでけがをしたろう。あれもおっかさんの罰だぞ。」
  「ふーん、そいで、おっかさんは、あの世という所におるの?」
  「そうだ。」
  「おれんとうは、あの世へ、おっかさんに会いに行くこたあできんかのう。」
  「あの世は、死なにゃあ行けんぞ。」
  「おっかさん、おれんとうの所へきて、しかってくれんかのう。」
  「うんと悪さをせやあ、しかりに来るかも知れん。」
  「おらあ、おっかさんに会いたいなあ。兄ちゃん、今からどでっかい悪さをせまいか。そうすりゃあお
   っかさんが、おれんとうのほっぺたをたたきにくるらあ。」
  「ばかな事を言うな。お前の病気をなおしてもらうために、おらあお月さまに、決して悪さはしません
   と約束したんだぞ。」
  「そんでも、おっかさんに会いたいなあ。」
  お月さまは天の上から、このみなし子のきっね兄弟の話を聞いて、あわれに思わしゃった。
  「かわいそうに。あの親なしのきつね兄弟に一回だけ悪さをゆるしてやろうか。そうして、おっかさん
   に会わせてやるか。」
  お月さまはのう、自分の心を、兄きつねの心の中に投げこんだのじや。
  「なあ、お前が、そんなにおっかさんに会いたいのなら、一度だけ、ひどい悪さをしてみるか。」
  「ほんと?おっかさんに会えるね。うれしいなあ。うんと悪さをせまいね。」
  村のはずれの森の入口んとこに、『神様のこしかけ岩』という岩があったんじゃ。村の言い伝えによる
  とのう、大昔、神様が腰をかけた岩だそうな。その岩が動くと、大地震(おおじしん)や大火事や、は
  やりやまいなんぞ、悪い事が起こるということじゃ。
  「今から、森の入口の『神様のこしかけ岩』を動かして、村の人をおどかすのだ。」
  「うん、おもしろいね。さあ、行かまいか」

   兄弟ぎっねは、森のシダの葉をとって体にしばりつけて、姿を人に見られんようにして、『神様のこ
  しかけ岩』のすぐ後ろのシダのしげみの中にかくれて、人の来るのを待つとった。そこへ畑帰りの五作
  と与平(よへい)が連れだって歩いてきおったんじゃ。
  《ズルッ、ズルッ、ズルッ。》
  「のう与平よ。何か変な音がせやあせんかのう」
  《ズルッ、ズルッ、ズルッ。》
  「うん。何か重たい物が地べたをずれとるような音たのう。」
  うす暗がりの中で、五作と与平は、目を皿のようにして、あたりを見ると、
  「ありゃ、えれえこった。神様のこしかけ岩が動いとる!!」
  《ズルッ、ズルッ、ズルッ。》
  「こりゃあ、てえへんだあ。村にわりいことがおこるぞ!!」
  二人のお百姓は、くわもかまもおっぼりだして、いちもくさんに逃げだしたんじゃ。久しぶりで悪さを
  して、いい気持ちになった兄弟ぎっねは、自分のほら穴に帰ってきた。お月さまは、母ぎつねのまぼろ
  しを、穴の中に送りこんだ。
  「あっ、おっかさんだ!!」
  「これ、コン大とコン吉!!人間なんぞをからかうもんじゃあない。そんな悪さをすると、人間に殺され
   てしまうぞ。ばか者め!!」
  母ぎつねのまぼろしは、前足で二ひきの兄弟ぎつねのほっぺたをたたいた。
  「あっ、いててて………。」
  「いたいよう!!」
  母ぎつねのまぼろしは、二ひきをなぐってすぐ消えてしもうた。二ひきのきつねは、自分のほっぺたに、
  おっかさんの前足のぬくもりを感じてのう、体がぞくぞくするほどうれしゅうなったんじゃ。それから、
  また明くる日も、そのまた明くる日も、兄弟ぎっねは、神様のこしかけ岩を動かして、村の衆をおどか
  しとったんや。このありさまを見たお月さまは、
  「どうしょうもないなあ。あの二ひきは、いっそのことほんとうにあの世に行った方がいいかも知れん。
   今に、人問が、きつねのしわざだと知ると、えらいめにあうだろうが、わしは、なりゆきにまかせる
   ことにしょう。」

   村の衆があんまりさわがしゅうするんでな、庄屋(しょうや)さまも、ほってはおけんくなりおった。
  この庄屋さまは、たいそうかしこい人じゃった。
  「岩がひとりでに動くなんて、そうやたらにあるものか。何者がのしわざにちがいない。おれがたしか
   めてくれる。」
  村の衆は、いつも、神様のこしかけ岩を正面から見とったがのう、庄屋さまは、横から見たんじゃと。
  そうすると、シダのたばが二つ岩につかまって、岩といっしょに動きおるんじゃが、太いしっぽがちゃ
  あんと見えるんじゃ。
  「きつねのばかめ。ほかん者の目はごまかせても、わしの目は、ごまかせれんぞ。」
  庄屋さまは、急いでうちへ帰ってのう、村の衆を集めたんや。
  「のう、お前さまがた。神様のこしかけ岩を動かしとるなあ、ありゃ、きつねだぞ。きつねの悪さじゃ。
   ちっとも恐れるこたあねえぞ。あしたの夕方、鉄砲打ちの権次と熊造にたのんで、悪さっねめを退治
   してくれる。」
  あくる日、権次も熊造も、シダの葉で体をかくして、シダのしげみの中にかくれとったんや。それとも
  知らずにのう、兄弟ぎつねがやってきおった。村の衆は、悪ぎつねが退治されるのを見いと思って、み
  んな、ぞろぞろと来おったんや。
  「今日は、たくさん来るぞ。」
  「みんなが、おどけて、キャーキャー言いながらにげたら、おもしろいぞ。」
  《ズルッ、ズルッ、ズルッ。》
  岩を動かしたとたんに、「ズトーン!!」 「ズトーン!!」 権次と熊造の鉄砲が火をふいた。虫の息にな
  った二ひきのきつねは、顔を見あわせてのう。
  「兄ちゃん、おれんとうは、これで死ぬのかのう。」
  「そうだ、死んで、あの世に行くんだぞ。」
  「おっかさんに会えるのう。」
  「ああ、あの世で、これからあ、いつまでもおっかさんといっしょにくらせるぞ。」
  お月さまは、天の上から、じっと二ひきのきつねをごらんになっおいでた。
  「かわいそうだが、これでよかったのかも知れん。ぞうじゃ、あの二ひきの魂を母きつねの魂に会わせ
   てやろう」
  お月さまは、兄弟きつねの魂を天の上まで引き上げてのう、おっかさんぎつねの魂(たましい)のもと
  まで送りとどけたんじゃと。鉄砲に打たれた兄弟のきつねは、神様のこしかけ岩の後ろで、安らかな顔
  をして死んでおったそうな。

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   昔はのう、どこの村にも変わり者がおったもんだぞ。猟師のきいさもやっぱり変わり者でのう、村の
  衆は、きいさのことを『ほらふき鉄砲きいさ』と言っとったそうじゃ。毎日、火縄(ひなわ)鉄砲をか
  ついで、太郎ちゅう、りこうな犬を連れて山へ行ってのう、うさぎや、きじや、山鳥、ときにゃあ、い
  のししなんぞを撃って、暮らしをたてとったんじゃ。ほらふき鉄砲きいさと言われるだけあってのう、
  この人の話は、どっからどこまでが、本当の事だか、わからんのじゃ。ときにゃあ、ありもせんことを、
  いかにも、ほんとうの事のように、大げさに話して、村の衆をびっくりさせたり、こわがらせたりして、
  おもしろがっとったそうじゃ。

  「ほい、昨日、すごくでっかい大蛇を見たぞん。うそじゃあない。西の山で、このわしがはっきり見た。
   西の山で、うさぎを見つけてのん、太郎と、わしが追いかけてったら、山の奥に池があってのん。う
   さぎがちょっと止まったで、鉄砲をかまえたら、池から大蛇が出てきて、うさぎをひとのみに、のみ
   こんじゃったぞん。体の太さは一升徳利(いっしょうとっくり)ぐらいでのん、頭の大きさは、わし
   の太ももぐらいだった。体の色は、茶色で、黒い模様があったぞん。さすがの太郎も、おそがくて、
   よう近くへは行かなんだ。わしが、鉄砲を空へ向けて一発ズドンとぶっぱなしたら、池の中へ逃げた
   がのん。よっぽど、撃ってやらあかと思ったがのん、蛇を殺すとたたりがあるで、わしゃあ、やめた。
   そんでも、見ただけで、ゆんべ、わしゃあ熱が出てのん、体が、がたがたふるえたぞん。薬を飲んだ
   おかげで、熱はひいたが、どうにも、今日は山へ行く気にならん。あんたらも、西の山の池の近くへ
   行っちゃあだめだぞん。」
  村の衆は、「また、鉄砲きいさのほら話か。」と思ったが、きいさの話を聞くと、目の前に大蛇を見て
  おるように話すもんで、「やっぱりほんとの話かなあ。かりにうそであっても、何も、すきこのんで、
  山奥の他なんぞ行くこともあるまい。」と、思って、その池の方へ行く人はなかったちゅうことだ。

   大蛇(だいじゃ)の話は、まったくのでたらめだったんだ。ほんとは、池のむこうの赤松の林で、鉄
  砲きいさは、まつたけのしろを見つけてのう、こいつを、自分だけの秘密にしたかったんじゃ。そんだ
  で、大蛇の作り話をして、みんなを、こわがらせたんじゃ。そんでものう、鉄砲きいさは、まったけを
  どっさりとってきても、自分だけが食べるんでなくて、みんなにわけてやるという、気前のいいとこも
  あったんじゃ。じゃから、ほらふきでも、村の衆にきらわれなんだと。

   こんな話もあるぞ。鉄砲きいさが、いのししを撃ちそこなったことがあるんじゃ。いのししは、すぐ
  そばで、ワンワンほえとった犬の太郎を、きばで突いたんしゃ。きいさは、犬を助けえとして、いのし
  しのけつを鉄砲で、なぐりつけた。そうすると、いのししが、鉄砲きいさにむかってきたんじゃ。きい
  さは逃げながら、大きな岩の前で、横倒しにころんでしもうた。勢いあまったいのししは、岩に鼻先を
  ぶっつけて、あっさり死んでしもうた。きいさはやれやれと胸をなでおろしてのう、死んだいのししに、
  二発はど鉄砲だまをぶちこんで、村へもどった。
  「村の衆、だれか手伝っとくれ。大いのししを仕止めたが、重くて持ってこれんでのう。」
  「また、きいさのほらか。うそか、ほんとか、一ぺん見に行がまい。」
  近所の衆が綱を持って、山へ行ってみると、太いのししが、鉄砲に打たれて、たおれとった。
  「ありやあ、きいさの話も、まんざら、うそはっがじゃあねえのう。」
  このいのししの肉も、きいさは、みんなに分けてやった。

   ある時、鉄砲きいさの村へ、吉田のお殿様が狩りにやってござらしゃった。このお殿様は、へびが大
  きらいなお人じゃった。きいさは、お殿様の蛇ぎらいの話を聞いて、
  「こいっぁあ、いいことがあるぞ。うまくいきゃあ、ほうびがもらえるぞ。やりそこなったら、しばら
   れるかもしれん。なあに、おれのこったで、しくじるこたあ、あるめえ。」
  と、ひとりがてんして、狩場人足(かりばにんそく)にやとってもらったんじゃ。狩が始まって、お殿
  様の側から、家来がちょっと離れたすきに、きいさは、
  「お殿様、お動きなさらねえでくだせえまし。背中に何かとまっておりやすで、おそれ多いことでごぜ
   えますが、私めが、とってさしあげまする。」
  と言うと、お殿様が、「早く取ってくれ。」と言うが早いか、背中にとまっとる物をとるかっこうをし
  たんじゃ。 気がついた家来が、
  「無礼者!!。」
  と言って、刀をぬいて、きいさの前へかけ寄った。
  「お許しくだせえまし。お殿様の背中にとまっとりましたへびを、とってさしあげたのでごぜえます。」
  と言って、かくし持っとったへびを見せたんじゃ。殿様は、たいへん喜ばれのう、
  「そちは感心なやつじゃ。名は何と申す。」
  「はい、喜作(きさく)ちゅう猟師でごぜえます。村の衆は、鉄砲きいさと呼んでくれます。」
  「そうか、鉄砲で狩をしておるのだな。ほうびとして、新式の鉄砲をつかわすぞ。」
  まんまと殿様をだまして、火縄なしでうつことのできる新式の鉄砲もらったきいさは、悪いことをして
  しもうたと気がついたのか、それからは、人がかわったように、ほらをふかんようになったと。

   そうして、「殿様から鉄砲をもらったきいさの住んどる村」ちゅうことで、この村が、いつしか鉄砲
  村になったと。それから、ずうっと後のことじゃが、鉄砲町と上の山町がいっしょになって鉄山になっ
  たんじゃと。これが、今の鉄山町物名の起こりじや。鉄砲きいさの話は、これでおしまい。

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   この話はのう、江戸時代の中ごろから終わりにかけての話じゃということだ。そのころ、橋良村は、
   家が百軒ほどのさみしい農村で、あちこちに大きなけやきの木がしげっておったそうな。夏になると、
   あき地にも、道の両わきにも草がしげって、雨ふりの日なんぞ、昼でもうす暗くて、きみが悪かった
   そうな。なまず池という池から流れ出た水が、いくすじかの小川になって、橋良村の田んぼに水を引
   いとったんじゃ。このいくすじかの小川が、所々で一カ所で合わさってのう。また、向きを変えて、
   いくすじかの堀になって、田んぼに水を入れるようになっとった。この小川の合わさった所は、えん
   ぼりと言って、はばも広いし、深さも深かった。そうして、えんぼりのまわりにゃあ、大人のせたけ
   ほどの草がしげっとったそうな。雨ぶりの日に、夕方から夜中にかけて、このえんぼりから、時々人
   間のようななりをした、怪物とも化け物ともわからん、けったいなヤツが現われるんじゃ。暗やみの
   中で、こいつがえんぼりの水の中から出てきて、
   「イヒヒヒヒ……」
   と、うす気味悪い声を出すんじや。村の衆はこいつを恐ろしがってのう、『えんち坊主』と言うとっ
   たげな。

    えんち坊主の正体をはっきり見た者はおりゃあせん。何しろ、暗い雨ぶりの夜じゃし、チョンギリ
   という笠をまぶかにかぶっとるで、顔なんぞ見えやせんのう。そんなもの見とるより、逃げる方が先
   だったでのう。年をとった河童(かっぱ)だろうと言う者もおるし、かわうその化け物じやあねえか
   と言う人もおったが、ほんとの正体はわがらなんだ。雨の降る夜、えんぼりの水の中から、えんち坊
   主が出てきて、手まねきをして、低い声で、
   「おいで、おいで、えんぼりへおいで。」
   と言ったかと思うと、とつぜん高い声で、
   「イヒヒヒ……」
   と笑ったりすりゃあ、どんなにきものすわった人でも、持っておる物を投げつけて、逃げたそうだぞ。

    橋良村に安兵衛(やすべえ)というすもうの強い力自慢の人がおってのう、この人が、
   「化け物のくせに人間様をおどかすとは、けしからんヤツだ。おれが正体を見やぶって、こらしめて
    やるぞ。」
   と言ってのう。ある夏のことじゃったが、えんち坊主の出そうな雨ふりの日を待っておったんだと。
   八月の日照りがいつまでも続いて、村の衆は会う人とに、
   「一雨(ひとあめ)ほしいのん。」
   と言いかわしておるうちに、八月のなかばごろ、待ちに待った大雨がふりだした。安兵衛は、
   「ようし、今晩こそは、えんち坊主のヤロウをねじふせてくれるぞ。」
   と、いきおいこんで、夕方ごろからえんぼりの向かいがわの草のかげにかくれて、えんち坊主の出て
   くるのを待つとったと。日がくれて、あたりが暗くなると、えんぼりのくさむらから、
   「安兵衛、おれは、ここにおるぞ。」
   と、低い声が聞こえてきおった。
   「ヤロウ出てきたな。ねじふせて、正体をあばいてくれるぞ。」
   安兵衛は、身がまえをして、目をこらしてじりじりと声のする方へ近づきおった。ザアザアと雨のふ
   る中で、えんち坊主は、えんぼりのふちの草の中にすわっていた。その手には小判のような物を持っ
   ておってのう、そいつを安兵衛の方へ向けたんじゃ。その小判のような物がのう、チカチカッと光っ
   たかと思うと、安兵衛の体は、かたくなって動けんようになってしもうた。むりやり動こうとしてい
   るうちに、安兵衛は、ずるずると、えんぼりの中へはまりこんでしもうたと。その後、安兵衛のすが
   たは、二度と橋良の村に現われんかったし、えんち坊主も、再び姿を見せんようになったということ
   じゃ。

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    藤沢町というとのう、今じゃあユナイテッドシネマやイトーヨーカドーなどの大きい建物や、いろ
   んな店が建ちならんどって、りっぱな町になっとるが、ずっとずっと昔は小さな浜辺だったそうな。
   そんだでな、藤沢町あたりの村は、入り江にそった静かな漁村じゃったそうな。村人んとうは、田畑
   をたがやしたり、海で魚や貝をとったりして、くらしていたんじゃ。昔のことだで、村の子供んとう
   は、手伝いが終わると、みんな浜へ行って遊んだそうな。

   「や一い、ヤッスウ。そっちへ、でっきいカニが行くぞ。早くつかまえよ!!」
   「兄ちゃん、カニは、どこにおるだん。」
   「それ、お前の右の君んとこだ。」
   「あっ、でっきいね。」
   「いただ……、こんちくしょう。手をはさみゃあがった!!」
   「おしゃあ、下手だなあ。」
   「あっ、もっとでっかいのが出てきたよ。」
   「よし、こんどは、おれがつかまえるぞ。」
   「なあ、ヤッスウ、ここんとこをこうやって、つかましゃあ、はさまれんぞ。よく覚えとけよ。」
   「兄ちゃん、もっとたくさんつかまえて、あとで、おっかあにゆでてもらわまい。」
   遊んでおってものう、子供んとうは、ちゃあんと一家の食べ物をとっておったんじゃ。女の子んとう
   は、おっとうやおっかあといっしょにアサリやハマグリをとりに行って、うちの手伝いをしとったん
   じゃ。
   「やい、おたまもおみつも、大きいやつをたんと拾えよ。銭(ぜに)がもうかったら、正月に着るお
    しらの着物を買ってやるでなあ。」
   おたまも、おみつも、正月の晴れ着を夢見ながら、うちの手伝いにはげんだ。じいさまや、ばあさま
   も遊んじゃあおらん。浜辺へ打ちよせられたモク(海草)を拾い集めて、大きなかごに入れてござる。
   このモクは、しおけを切って、つみごえにすると、田畑のこやしになるんじゃ。海がしけたあとにな
   ると、じいさま、ばあさまにまじって、若い衆もモク捨いをしたもんだ。
   「ほい、茂作さのばあさまと、伊助さのばあさま。おめえ様んとうは、口ばっか動いとるが、手がち
    っとも動かんじゃあねえか。」
   「何を言うだい、五平さ。わしらのかごを、ちょっとのぞいてお見りんさい。」
   「やあ、よう集めたのう。」
   「こういうのを、口も八丁(はっちょう)、手も八丁ちゅうだぞん。」
   「こいつぁ、やられたわい。」
   年寄りは年寄り同士で、けっこう楽しく働いたものさ。この年寄りたちにまざって、若い夫婦もモク
   捨いをしておった。
   「ありゃあ、又作(またさく)とおみよだのう。若いのに感心な働き者だのう。」
   「ほんとうにそうじゃ。あの二人は、若いもんの手本たのう。」
   「今でこそ貧乏しとるが、あの二人が、わしらの年にゃあ、長者になるかも知れんぞ。」
   村の人んとうが言うように、又作は、毎年、少しずつ田畑をふやしていきおった。田畑の仕事のあい
   まにゃあ、漁に出たり貝をとったりして、吉田の宿(しゅく)へ売りに行き、銭もためとったんじゃ。
   「なあ、おみよ。銭をためて、新しい家を建てえじゃあねえか。がっしりした、りっぱな家を建てと
    きゃあ、それが子孫に残してやる財産だでなあ。」
   又作どおみよは、縁(えん)の下をほって、大きな瀬戸物のかめをいけて、かせいだ銭を、そん中へ
   ためておったんじゃ。

    ある年の秋のことじゃった。又作夫婦は、浜へ出てモク集めをしておった。その時、急に空が暗く
   なり、大つぶな雨がふりだした。風も強くなった。
   「おみよ、とうとうふりだしゃあがったのう。大ぶりにならんうちに、帰るかのう。」
   「そんでも、もうちいと集めまいか。」
   雨ん中で、二人がモク集めをしておると、ぐらぐらっと、地面がゆれだした。
   「地しんだ!!」
   二人が立っておれん程の大地しんだ。浜で腹ばいになっとると、沖の方でコーツという音がする。
   「津波だ!!」
   「こりゃあ、こうしちゃあおれんぞ。早く高いとこへ逃げろ。」
   「津波だあ、津波だあ!!」
   二人は、村の衆んとうに知らせながら、高い丘へ走りおった。村の衆も、次々に丘へ逃げてきた。丘
   の上から村の田畑を見ると、村中の田畑が津波にのまれて、海のようになってしもうた。
   「田畑に塩気がしみこんでしまったのう。こいつをもと通りにするにゃあ、なみたいていじゃあねえ
    のう。」
   「毎日働きずめに働いて、よう肥えた田畑にしたちゅうにのう。」
   又作もおみよも村の衆も、なみだを流しながら、くやしがった。津波がひいてから、しょぼしょぼと、
   もどってみると、土台の石だけを残して、建物も道具もごっそりと、津波が海へさらって行ってしも
   うた。
   「おみよ、縁の下の銭が残っとるかも知れんぞ。」
   どろをよけて、かめをうめた所をほってみると、
   「やい、銭だけは、全部残っとるぞ!!」
   「よかったのん。それだけありゃあ、小さなうちが建つらあ。」
   「うちは、おれんとうで、ほったて小屋を作らまいか。雨露がしのげやあいい。どうせ金をかけるん
    なら、もっと銭をためて、りっぱなうちを建てえじゃあないか。」
   「そうだのん。銭が残っただけでも幸せだと思わにゃあいかんのん。」
   「はじめから、やり直しだぞ。津波で荒れはてた田畑を、何年かかってでも、もと通りの肥えた田畑
    にやりなおすんじゃ。」
   二人は、前にもまして働いた。村の衆んとうも、せっせと働いた。そうして、何年かが過ぎて、この
   小さな浜辺の村も、昔通りの平和な村になってのう。 それから、また、年月が流れてのう、この村も、
   小さな浜辺の村ちゅうことで、小浜村ちゅう、名になったそうな。又作夫婦は、夜を日についで働き
   とおして、田畑は、どんどんふやしていくし、御殿のような、りっぱな家も建ててのう、孫ができる
   ころにゃあ、小浜長者と呼ばれるようになったそうな。

    世の中が、うつりかわって、又作の小浜長者の話も、いつしか忘れられてしもうたが、小浜という
   地名は、今も残っておるんじゃ。このあたりが、昔、浜辺だったことを物語ってくれるのが、小浜神
   社や万福寺(まんぷくじ)にある貝塚ということじゃよ。

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   お話をするに先だって、この物語の舞台になった小浜町の昔のようすを調べてみよう。

  …………………………………………………………………………………………………………………………
   その昔、三河国渥美郡高薦郷(みかわのくにあつみぐんたかしごう)のかたすみに、小浜坂口という、
  戸数三十戸ほどの小さな村があった。この村の南に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)をまつる八幡山
  (はちまんやま)という小高い丘があり、そのあたり一帯は、松をはじめとする雑木林になっていた。
  西南には、きりたったがけがあって、その下は海であった。北の方にせまい田畑があり、村人の一部は、
  漁業をしていたが、生活の大半を、米と麦でまかなっていたと言われている。そのころ、各地で戦が続
  いていたが、このあたりは、小浜神明社を中心として「橋良御厨(はしらみくりや)」とよばれる、伊
  勢神宮の荘園として保護をうけたため、豊かな村とはいえなかったが、平和な暮しを続けていた。戦い
  のもとは、源氏がたちあがって、平家をほろぼそうとした事に始まった。日本の各地で、合戦が行われ、
  源氏の大将、源頼朝がやがて平家を打ちほろぼし、天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任
  ぜられた。頼朝は、三浦半島の鎌倉に幕府をつくり、武士による政治を始めた。この源頼朝は、合戦が
  終わって源氏の世の中になってから、現在の豊橋付近に立ち寄った事があるといわれ、豊橋付近には、
  源頼朝にまつわる史跡や伝説が、いろいろと残されている。この『ささおどり』の話も、その伝説の一
  つである。
  …………………………………………………………………………………………………………………………

   東海道筋の飽海(あくみ)に滞在していた源頼朝は、ある日、何人かの家来をつれて、渥美半島へ狩
  に出た。弓矢をとったら腕に覚えのある家来たちは、うさぎ、しか、いのしし、ぎし、山鳥、うずらな
  どを、次々に仕止めて、主人頼朝から、おほめの言葉をいただき、われこそはと、思わず時を過ごして
  しまった。
  「殿、もはや夕刻も近くなりました。日の暮れぬうちに、お帰りあそばしては………。」
  「そうじゃのう。飽海(あくみ)の館(やかた)にもどるとするか。」
  頼朝主従が、帰り支度をしていると、近くを大きなきつねが通り、
  「きつねが見えまする。」
  「みごとなきつねじゃ。あのきつねを予が仕止める。手出しは無用じゃ。予に続け。」
  武士たちの姿におどろいて逃げるきつねを追い始めた。きつねは、たくみに逃げ、頼朝の矢を三度まで
  もかわした。雑木林をかけぬけたかと思えば、岩かげにひそむ。頼朝の矢をかわして、人の背たけほど
  もある草の中にとびこむ。頼朝主従が、このきつねを長追いしているうちに、日はとっぷりと暮れてし
  まった。

  「殿、帰りの道が、とんとわかりませぬ。」
  「道に迷うてしもうたか。どこぞに民家でもないか、さがしてまいれ。」
  家来の一人が、あちらこちら馬を走らせて、民家の明かりをさがしているうちに、やっとのことで、雑
  木林のかなたにかすかなともしびを見つけることができた。
  「殿、雑木林のかなたに、明かりが見えまする。ひとまず、あれをたよりにして参りましょう。」
  頼朝主従は、明かりをたよりに林を通りぬけた。その明かりは、民家ではなくお寺であった。お寺の山
  門には、『宝樹山万福寺』(ほうじゅざんまんぷくじ)の額が、かかげられており、月明かりで、やっ
  と読むことができた。
  「万福寺と申す寺か。」
  山門を入った所に大きな石があった。
  「殿、まずは、この石に腰かけて、お待ち下さりませ。」
  家来の一人が、明かりのともっている庫裏(くり:お寺の台所)に行った。
  「頼もう!!」
  声をかけたが、返事がない。
  「頼もう!!」
  再び声をかけたが、庫裏の中は静まりかえっている。
  「中へはいるぞ。許せ。」
  庫裏の中に入ってみたが、中にはともし灯(び)だけが、わびしくゆらいでいて、人のいる気配がない。
  「殿、ともし灯は、ともっておりますが、人がおりませぬ。」
  と、家来が頼朝に報告している時、山門の外をお高祖頭巾(こそずきん)をがぶった娘が通りかかった。
  「これ、これ、娘。そちは、この村の者か。」
  「はい。」
  娘は、狩装束(かりしょうぞく)の武士たちにおびえているようであった。
  「娘、心配致(いた)すな。ここにおわすお方は、源氏の御大将、源頼朝公(こう)である。下々の者
   をいたぶるようなお方ではない。安心せい。」
  「われら主従、狩に出て、時を過ごし、道に迷うて困っておる。この村は何と申す村かのう。」
  「ここは、小浜の坂口と申すところでございます。」
  「さようか、飽海の宿へ行く道を存じておるか。」
  「はい、知ってはおりますが、ここから飽海の館(やかた)へお帰りになるには、道がわかりにくうご
   ざいます。案内がなくては、とても、かないませぬ。」
  「夜ぶん、気のどくじゃが、この村の者で、われらの案内を頼む者はあるまいかのう。」
  「もし、私でよければ、御案内申します。」
  「ほう、この夜中に、女の身で、そなたがのう。」
  「殿、お聞きおよびの通りでございまするが、いかが致しましょうや。」
  「せっかくの申し出じゃ。そうしてもらおう。娘、そちの好意、おろそかにはせぬぞ。」
  「お言葉、おそれいりまする。では、皆様、御案内申しまする。」

   娘は、林を、野を、田を、身軽(みがる)にひょいひょいと走った。その速いこと、馬を馳けさせな
  くては、ついて行けないほどであった。無事に、飽海の館に帰りついた頼朝は、娘に言った。
  「無事にもどれたのは、そなたのおかげじゃ。ほうびをとらす。何なりと申せ。」
  「お困りになっておられるお人をお助けすることは、小浜坂口の村では、あたりまえのことになってお
   りまする。何もいりませぬが、もし、お聞きいただけるなら、今後、狩においでになっても、きつね
   を殺さぬようにお願い申します。」
  「なんと、きつねをのう。」
  「はい。」
  「それだけでよいのか。そのほかに、ほしいものはないか。」
  「何もござりませぬ。」
  「無欲な娘よのう。そなたの申すこと、しかと心得た。そなたに救われたこの日の事、頼朝、生涯忘れ
   ぬぞ。」

   豊橋の吉田神社の砥園祭(ぎおんまつり)に古くから伝わる頼朝行列の前を行く『ささおどり』 は、
  この、頼朝案内をかたどったものであると言われている。現在では、行なわれていないが、江戸時代の
  末までは、ささおどりの行列は、万福寺を出発し吉田神社へ向かっていたといい、万福寺の境内 には、
  頼朝が腰をかけたと伝えられる石が現存し、「天王岩」(てんのういわ)とよばれている。
   そして、頼朝を案内した娘については、きつねの化身(けしん:人の姿をしたもの)ではないかと、
  村人の口にのぼったが、さだかでない。

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   むかしのう、橋良(はしら)の村に白井むこ次さんちゅう人が住んどったと。むこ次さんは、たいへ
  んな働き者でのう。朝は、うす暗いうちから起きて、夕方、一番星の出るころまで、田畑の仕事をして
  働いたそうな。その上、器用な人で手仕事もとっても上手でのう、田畑の仕事のひまをみて、藁(わら)
  でいじこや俵を編んで、村の衆に安い値で売ってあげたそうな。藁細工(わらざいく)ばっかじゃなく、
  竹で、ざるや竹みやうげなんぞ作るし、板や角材(かくざい)で、はしご、はこ、つくえなども上手に
  作ったんじゃ。
  「むこ次さの作ったもんはなあ、じょうぶで長持ちするし、安い値で売ってくれるで、たすかるのん。」
  村の衆も、とっても喜んで、むこ次さんの作った物を使っておった。

   むこ次さんが、五十才ぐらいの時じゃった。どういうものか、ひざが痛むようになってのう。なかな
  か治らんかった。こう薬をはったり、あんまにもんでもらったりしたが、いっこうによくならなんだ。
  「おれは、働くだけがとりえで、信心(しんじん)が足りなんだ。朝晩、神様や仏様におまいりして、
   おれの足をなおしてもらうようにおねげえすべえ。」
  むこ次さんは、自分のうちの神棚(かみだな)や仏壇(ぶつだん)に朝晩おまいりをするようになった。
  そうすると、ある夜、夢の中に観音様が現われて、
  「むこ次よ、お前の足を治すには、道ばたに半分埋もれかかった無縁仏(むえんぼとけ)と、観音像
   (かんのんぞう)を埋り出して、供養(くよう)するがいい。」
  と、お告げになったんじゃ。むこ次さんは、そのあくる日から、痛む足をひきずるようにして、橋良の
  地内(ちない)のあちこちをさがしまわってのう、とうとう無縁仏と観音像をさがし出したそうな。
  「ああ、もったいないことじゃ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。」
  草だらけの小道のふちに、半分うもれかかった無縁仏と観音像を堀り出して、きれいな水で洗って、ど
  ろを落としたり、道ばたのくさむらをきれいにほりかえし、地ならしもして、じゃりをしきつめて、観
  音像や無縁仏を安置(あんち)したんじゃ。お線香だても、お水をあげる茶わんも持ってきたし、竹づ
  つで、花立ても作って、毎日、お参りに来たんじゃ。

   こうして、きれいにしてさし上げると、むこ次さんばっかでのうて、村の衆もお参りするようになっ
  てのう、線香をあげたり、お供物(くもつ)をあげたりするようになったそうな。おさい銭をあげる人
  もあったということじゃ。そうこうするうちに、むこ次さんの足も少しずつよくなってきた。
  「ありがてえことじゃ。観音様の御利益(ごりやく)で、おれの足も、だいぶ痛みがひいた。観音様に
   雨露(あめつゆ)をしのいでいただくように、祠(ほこら)をつくってさし上げるべえ。」
  器用なむこ次さんは、観音像が入るぐらいの祠と、さい銭箱を作ったんじゃ。祠ができあがったころに
  ゃあ、むこ次さんのひざの痛みは、まったくよくなっておったと。

   観音様の御利益の話を聞いた村の衆がたんとお参りに来るようになってのう、おさい銭もたまるんで、
  近くに住んどった芳賀(はが)さんちゅう人が、おさい銭の世話をするようになった。むこ次さんと芳
  賀さんは、おさい銭がたまったら、祠でなく、みんなが入って、お参りできる観音堂を建てようと考え
  とったんじゃ。この話を聞いて、大工の佐藤五作さんが、
  「材木だけ買ってくれりゃあ、おらが建ててもいいぞ。村の観音堂を建てるに手間賃なんぞいらねえ。」
  と言うてのう、今の柱第一公園の北のあたりに、昭和六年ごろ、りっぱな観音堂ができたんじゃ。とこ
  ろが、柱第一公園ができる時、この観音堂は、とりこわされ観音様は正光寺(しょうこうじ)の門前の
  観音堂に移された。今でも、たくさんの人がこの観音様にお参りするそうじゃ。

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   むかし、三河の国の東、海に近い所に小池という小さな村があってのう。村の衆(しゅう)は、せま
  い田畑をたやがして、ほそぼそと暮しをたてていたそうな。

   ある日のことじゃ。この小池の村へ、みすぼらしいなりをした年寄りの坊さんがやって来てのう。村
  はずれの小高い丘にあがって、村のようすをじっとながめたんじゃと。
  「うん、ここじゃ、ここじゃ。この村こそわしの最後の土地じゃ。ここへ寺を建てよう。」
  そのお坊さんは、若い時から托鉢(たくはつ:お坊さんが家ごとにお経をあぜにげてまわり、お米や銭
  のきふをうけること)をしてたくわえたお金を全部使ってな、小さな、そまつな寺を建てたということ
  じゃ。そうして、長円寺(ちょうえんじ)という名をつけたそうな。寺の横に、小さな観音堂も建てた
  んじゃと。
  「おい、へんてこな坊さんが、この村に寺を建てたちゅうじゃあないか。」
  「なんでも、ちっちゃな、おんぼろの寺じゃちゅうこった。」
  「いくら村ん中に寺ができてものう、そんなおんぼろ寺じゃあ、お参りする気にもならんのう。」
  「そうじゃとも。となり村へ行きゃあ、あんなにりっぱな寺があるでのう。」
  村の衆は、長円寺にゃあ見向きもせなんだが、たった一人、村いちばんの貧乏人のどん作だけは、
  「ありがてえこった。村の衆は、おんぼろ寺じゃと言うとるが、おらのような貧乏人にゃあ、ころあい
   だわい。観音様もおまつりしてあるそうな。これからあ、せいぜい信心せにゃあなあ。」
  どん作は、朝田畑へ行く時、夕方田畑から帰る時、一日二回、長円寺の観音様をお参りしたんじゃと。
  「観音様、どうかどん作めをお守りくだせえ。どん作は、毎日、いっしょうけんめい働きますので、田
   畑の作物がたんととれるようにおねげえします。」
  その年の冬、小池の村に風邪(かぜ)がはやって、村の衆は、はやり風邪に苦しんだが、どん作だけは、
  風邪をひかずにすんだそうな。
  「おらあな、長円寺の観音様を信心しとるおかげで、風邪をひかなんだぞ。」
  と、いばってみせたが、どん作をばかにしておった村の衆は、
  「どん作のばかめ、いいかげんな事をこきゃあがる。あんなおんぼろ寺の観音様に、そんねに御利益(
   ごりやく)のあるわけねえぞ。貧乏人の体は、風邪をひかんようにできとるずら。」
  と言って、てんで相手にしてくれなんだ。

   そのあくる年に、三河に大地震があったそうじゃ。七月九日じゃと言われとるがのう。三河のあちこ
  ちで、うちはぶっつぶれるし、海辺の村にゃあ津波がくるし、そりゃあ、えれえことじゃった。
  「地震だあ。うちがぶっつぶれるぞ!!」
  「おーい、津波のうなりが聞こえるぞ。早く逃げろ!!」
  ごうごうと、うなりをたてて、おしよせる津波にのまれたら命はない。村の衆は、われ先にと逃げてし
  もうた。どん作は、
  「そうじゃ、こんな時こそ、長円寺の観音様に助けてもらおう。」
  と言うて、長円寺の観音堂の前にひれふして、
  「観音様、どうか津波を止めてくだせえ。おらんとうの田畑やうちを守ってくだせえ。おねげえでごぜ
   えます。」
  と、くりかえしくりかえしお祈りしたんじゃと。ごうごうとうなりをたてて、おしよせてきた津波が、
  ふしぎなことに、長円寺の下までくると、止まったんじゃと。それからというもの、村の衆も、長円寺
  の観音様のお加護(かご:神や仏が守り助けてくれること)を、心からありがたく思ってのう。
  「長円寺は、おらが村のだいじなお寺じゃ。」
  と言うて、みんながお参りするようになった。寺を建てたお坊さんは、それがうれしゅうてたまらなん
  だが、寄る年なみにゃあ勝てず、その冬、なくなられたと。村の衆は、お坊さんをてあつくほうむって、
  みんなで力を合わせて、長円寺をりっぱなお寺に建て直してのう、新たに仁王門も作ったんじゃ。長円
  寺の下で津波が止まったということで、そのあたりの土地を、村の衆は『ここまで潮が満ちてきた』ち
  ゅう意味で、潮満(しおみち)とよぶようになったんじゃ。

   後に塩満と書くようになったがのう。そればっかじゃあなく、お寺の名も変えたんじゃと。『海の潮
  の音が聞こえた寺』ちゅうことで、長円寺は、いつしか潮音寺と呼ばれるようになったんじゃ。そうし
  てのう、地震と津波のあった七月九日を潮音寺のおまつりの日にしたんじゃと。潮音寺の観音様は、お
  しい事に、太平洋戦争中に空襲で焼けてしもうたが、仁王門と仁王様は、今も残っており、塩満という
  名も、保育園や公園の名として、昔を今に伝えているんじゃ。

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   この話は、遠い昔の話じゃ。むかし三河国、渥美郡の高盧郷(たかしごう)に、鍵作りの職人が住ん
  でいたんじゃと。腕のたしかな職人でのう、この親父さまの作った錠や鍵は、とても丈夫で、めったに、
  こわれなんだということじゃ。それに、ぬすびとなんぞが、別の道具で開けえとしても、なかなかあけ
  られぬ。うちの者が、合鍵(あいかぎ)を使やあ、するりとあいたそうじゃ。こんなことで、この鍵屋
  の評判は、吉田・岡崎・浜松あたりまで、ひびいていたそうな。

   この鍵屋の親父さまはのう、二人の息子を自分より腕のいい職人にせえと考えて、名前も、兄に鍵造
  (かぎぞう)、弟に鍵作(かぎさく)とつけたんじゃ。昔の職人はのう、自分の子に、あとをつがせる
  にゃあ、子供のころに、よその親方(おやかた)んとこへ年期奉公(ねんきぼうこう)に出して、そこ
  で難儀(なんぎ)をしながら、仕事をおぼえさせ、年期があけてから、また自分とこで腕をみがかせた
  そうな。ところが、高盧郷(たかしごう)の鍵屋の親父さんは、よそへ奉公に出さずに、一人の息子を
  自分でしこむことにしたのじゃ。
  「鋳造も鍵作も、仕事を習う時にゃあ、おれをおとっつあんと思うな。いいか、きびしい親方だと思え、
   おれも、自分の子供だと思わずに、びしびしやるぞ。」
  親父さまは、二人の息子が小せえ時から、鍵作りの仕事をびしびしと教えたが、兄の鍵造は正直でやさ
  しい子だったが、どうも手先が不器用でのう。鍵作りの腕はちっとも上達せなんだそうな。暇さえある
  と、近所の田畑へ行って、百姓の仕事を見るのが好きじゃった。弟の鍵作の方は、手先の器用な子で、
  親父さまに教えてもろうた仕事を次々に覚えてのう。めきめきと腕をあげて、十八のころにゃあ、親父
  さまでも、びっくりするほどの錠や鍵を作るようになったと。親父さまはのう、このありさまを見て、
  「やがては、この店も、息子につがせにゃあならん。店をつぐなあ、長男ときまっとるが、鍵造にこの
   店をつがせたら、またたく間に店はつぶれてしまうじゃろう。こりゃあ、どうしても、弟の鍵作につ
   がせにゃあなるまい。」
  と考えたんじゃ。

   そこである日、二人の息子を呼んで、
  「やがては、この店をお前らがつぐようになるんじゃが…。」
  と言いかけると、鋳造が、
  「おとっつあん、そいつあ、ぜひとも鍵作にやらせておくれ。おらあ、手先が器用でねえ。おらあ、百
   姓になりてえよ。」
  と言いおった。すると、鍵作もだまっとれんでのう。
  「兄様、何を言わしゃるだい。親のあとめは、長男がつぐものだぞ。仕事はおらが一生懸命に手伝うで、
   店をつぐなあ、兄様だぞ。」
  と、兄をたてたんじゃ。親父さまは、二人の言うことを聞いとったが、
  「この店は、鍵作があとをつげ。そのかわりに、鍵造にゃあ、十分に暮らしのたつだけの田畑を買って
   やるぞ。」
  と言うて、鍵作をあとつぎに決めたんじゃ。広い田畑を買ってもらい、百姓屋も建ててもらうた鍵造は、
  喜んで、百姓仕事に励んでのう。朝ははようから、夕方、空にお星さまの見えるころまで仕事をしたと。

   鍵造がある日、畑をたがやしとると、近くの道を一人の娘さんが通りかかった。娘の片方のげたのは
  なおが切れおって、まことに歩きにくそうじゃった。これを見た鍵造、もともとやさしい男だったんで、
  娘さんを気のとくに思って、
  「わしが、はなおをすげてあげらあ。ちょっとお待ちん。」
  と言うて、自分の手ぬぐいをさいて、はなおをすげてやったと。これが縁でこの娘さんは、やがて鍵造
  のおよめさんに来たんじや。この娘さんも、鍵造以上の働き者で二人で一生懸命に百姓仕事をするんで、
  田畑がどんどんふえたんじゃ。それに鋳造の田んぼの稲は、よその田んぼの稲よりも、よく育って、米
  もたんととれたそうな。こうして、十年、十五年、二十年とたつうちに、鋳造は長者と呼ばれるように
  なったんじゃ。思いやりのある長者様でのう、貧しい人にゃあ、ほどこしをするし、病んどる人にゃあ
  薬をあげるし、村の人んとうに、したわれる身になったと。鍵造んとこの、みごとな田んぼのことを、
  村の人んとうは、『鍵造田んぼ』と言うてのう、お百姓の手本にするようになったんじゃ。それがいつ
  のまにやら、『鍵田』と、つづまって、今の鍵田町の町名の起こりになったんじゃと。

   めでたし、めでたし。

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   明治維新以来、日本は富国強兵(産業をおこして国を富ませ、強い軍隊を育てて国を守る。)という
  政策をとってきました。この政策にそって、明治四十年に第十五師団が作られることになると、豊橋や
  岐阜や浜松が、自分の土地に作ってほしいと願い出ました。それは、軍隊の施設ができることによって、
  市が発展すると考えたからです。たくさんの競争相手がありましたが、結局、豊橋に第十五師団ができ
  ることになり、その場所は、当時の渥美郡高師村にきまりました。そのわけは、日本でも広い方だと言
  われる高師原と天伯原の演習場があったからです。そして兵営や、その他の陸軍の施設のほとんどが現
  在の福岡校区、栄校区のあたりに作られたのです。こうして、福岡は、明治四十一年から、太平洋戦争
  で日本が敗戦になった昭和二十年まで、約八十年近く、陸軍の町として発展し、戦後これらの軍隊の施
  設が、学校の校舎として利用され、現在の学園地帯となったのです。第十五師団の施設が現在どうなっ
  ているかというと主なものは、次の通りです。

      師団司令部  →  愛知大学本部
      騎兵(きへい)第十九連隊  →  福岡小学校など
      騎兵第二十五連隊  →  泰東製鋼(たいとうせいこう)など
      騎兵第二十六連隊  →  マルコスーパーなど
      歩兵(ほへい)第六十連隊  →  愛知大学
      野砲(やほう)第二十一連隊  →  時習館高等学校など
      輜重(しちょう)第十五大隊  →  豊橋工業高等学校など
      憲兵隊  →  豊橋警察署南部派出所など
      兵器廠(しょう)豊橋支廠  →  南部中学校・栄小学校など
      衛戌(えいじゅ)病院  →  国立病院

   こうしてみると、第十五師団は騎兵が多かったようです。騎兵というのは、馬に乗って戦争をする兵
  隊で、テレビの西部劇などで昔のアメリカの騎兵隊がインデアンと戦う場面がありますが、服装は違っ
  ていても、戦う様子が想像されると思います。日本がロシアと戦った日露戦争のころは、日本軍・ロシ
  ア軍両方の騎兵が活躍しましたが、だんだんと機械力が発達して、馬に乗って戦うよりは、戦車や装甲
  車が活躍するようになり、騎兵が姿を消していきました。

   ただ、騎兵第二十五、二十六の両連隊は第十五師団廃止後、満州(まんしゅう:中国の東北地方)に移
  り、敗戦の時まで馬を使っていたそうです。この二つの連隊は、日本陸軍最後の騎兵であったと言えま
  す。

   第十九連隊は、師団騎兵といって戦闘が主な目的でなく、師団の連絡等に使われたもので、兵隊さん
  の数も、二百五十人から四百人ぐらいでした。これに対して、第二十五、第二十六連隊の方は旅団騎兵
  といって、戦闘するのが役目の騎兵で、一つの連隊の兵隊さんの人数も八百人ぐらいでした。

   野砲(やほう)というのは、砲兵といって、大きな大砲を敵の陣地にうちこむ兵隊でした。大砲の弾
  の直径が八・五センチのものが野砲で、それよりも大きくなると重砲と言いました。野砲一門を六頭の
  馬がひきました。

   歩兵(ほへい)というのは、文字通り徒歩で戦う兵隊で、陸軍の主力で、歩兵連隊がいちばんたくさ
  んあったのです。一つの連隊に約千人の兵隊さんがいたそうです。

   輜重兵(しちょうへい)というのは、戦争に必要な物を、戦地へ運ぶ兵隊さんで、この兵隊さんも馬
  を使いました。

   憲兵というのは、 軍隊の中の警察でした。

   騎兵第十九連隊に、大正四年、竹田宮恒久王殿下が連隊長として着任されました。竹田宮様がお使い
  になった建物は、今も愛知大学の建物として残っています。福岡小学校は、昭和六年に騎兵第十九連隊
  のあった跡へ移転し、普通の兵舎は取りこわされて、学校の校舎に建てかえられたのですが、宮様のお
  使いになった建物だけは、記念として残されたのです。昭和七年十一月一日に福岡小学校の講堂の落成
  式があり、十一月三日にこの講堂で、柴山陸軍中将の記念講演があったそうです。その時、柴山中将は、
  竹田宮様が使われた建物に『竹栄寮(たけえいりょう)』という名をつけたそうです。今でも地域では、
  この建物を竹栄寮と呼んでいます。

   第十五師団ができて福岡の町には、将校の住む住宅ができたり、兵隊さん相手の飲食店や写真屋さん、
  兵役(へいえき)を終えて郷里へ帰る兵隊さんのための土産物屋(みやげものや)さん、また兵隊さん
  に面会に来た家族の人たちのとまる旅館などが立ちならび、にぎやかな町になりました。日曜日などは、
  福岡の町は、外出した兵隊さんのカーキ色の軍服姿でにぎわったそうです。しかし、この第十五師団も、
  二十年たたない大正十四年に廃止になってしまいました。師団は廃止になっても、軍の施設は残り、陸
  軍教導学校とか陸軍予備士官学校ができたり、陸軍補充馬廠(ばしょう)ができたりして、敗戦の日ま
  で、福岡は陸軍の町だったのです。

   山田町に今でも残っているのが昔の師団長官舎(かんしゃ)だそうです。明治の末から大正にかけて
  は、非常にハイカラな建物であったと思われます。建物の裏には芝生の広い庭もありました。大正六年
  に陸軍中将、久邇宮邦彦王殿下が第十五師団長として、おいでになり、この師団長官舎へ入られました。
  宮様はゴルフがお好きで、毎朝、師団長官舎のお庭で、ゴルフの練習をなさっておいでだったそうです。
  宮様がかわいがっておられた犬が、転がっていくゴルフのボールをくわえて、宮様のお手もとへ持って
  きたということです。ところがこの犬が、ある日誤って、ゴルフのボールをのみこみかけ、ボールがの
  どにつかえてしまいました。宮様は驚かれて、獣医を呼びましたが、犬は死んでしまいました。かわい
  がっていた犬が死んだのを大変悲しまれた宮様は、人間のお葬式と同じような葬式をしてやることにな
  りました。たくさんの花輪や鳩車が並び、お坊さんも、ずいぶんたくさん来て、お経をあげたそうです。
  火葬場までの行列にも多くの人が参加し、死んだ犬の供養のためにというので、餅(もち)を投げたり、
  道にいる人に菓子を配って歩いたということです。

   軍隊と一般の人々との関係についても、今のお年寄りに聞いてみると、豊橋の発展に役立ったという
  人もあれば、土地を安い値段でとられたとか、演習のたびに田畑を荒されて困ったという人も、いろい
  ろあるようです。子どもたちにとっては、兵隊さんはどのようにみえたでしょう。『どろんこ対物語』
  という本の中で、戦争中、小学生だった芳賀国郎さんは、兵隊さんと子どもの交流について、次のよう
  に書いておられます。(一部分引用)

  …………………………………………………………………………………………………………………………
   どろんこ村(※本の名にあわせて、福岡周辺を仮にどろんこ村と名づけた)は、むかしから軍隊の村
  で、あちこちに兵営がならんでいたので、兵隊さんはめずらしくなかったが、このごろ戦車が村へ来る
  ようになったので、子供たちは大喜びだった。エンジンの音をひびかせながら、土けむりをあげて戦車
  が来ると、子供たちは、いちもくさんに走って、戦車を見に行った。そして戦車に乗っている兵隊さん
  と仲よしになって、いっしょに歌をうたったり、さっまいもを持っていって、いっしょに食べたりした。
  お話のうまい兵隊さんがいて、自分の生まれた村や学校の話など聞かせてくれた。止まっている戦車に
  乗せてもらったことがあるが、テルたちは、一度、動いている戦車に乗せてもらいたいと思っていた。
  テルたちが走っていくと、松林の中に戦車が見えた。
  「おるぞ、戦車がおるぞ!!」
  「へいたいさーん、へいたいさーん。」
  子供たちは手をふりながら走った。兵隊さんも手をふっていた。息をはずませながら戦車のそばへ行く
  と、兵隊さんは、
  「今から隊に帰らにゃあならんで、今日は、おまえたちと遊んじゃあおれんぞ。」
  と言った。
  「ねえ、とちゅうまで戦車に乗せてって。」
  「みつかるとおれがしかられるで、だめだ。」
  「みつからんようにするよ。」
  「ねえ、ちょっとだけでいいで、走っとる戦車に乗せて。」
  子どもたちがやかましくたのむので、兵隊さんも、
  「そうだなあ。」
  と言ってしまった。子どもたちは、ここだとばかりに、
  「のせて、のせて!!」
  と、せがんだ。兵隊さんは笑いながら、
  「それじゃあ、こうしょう。姉さんのいる子だけ乗せてやるかな。」
  と言った。
  「ぼくんとこ、姉さんがいるよ。」
  ター坊がとくいになって言った。
  「年はいくつだ。」
  「六年生。」
  「それじゃあだめだ。せめて女学校へ行っとるぐらいの姉さんでなくちゃあ。」
  「どうして?」
  「まあいい。そんなことわからんでもいい。仕方がないでみんな乗れ。しっかりつかまっとるんだぞ。」
  テルたちは、走っている本物の戦車に乗せてもらってすごくごきげんだった。自分が一人前の兵隊さん
  になったような気分になって、家の近くまで乗せてもらった。
  「兵隊さん、ありがとう。」
  兵隊さんにおじぎをして、とくいになってうちへ帰った。
  …………………………………………………………………………………………………………………………

   騎兵連隊はもとより、野砲連隊も輜重兵大隊も馬を使うので、馬にまつわるお話がいろいろと残って
  います。小浜あたりには、たくさんの小川が流れていました。この小川を改修して、新しく大きな川を
  作りました。これは、馬を洗うために作られたのです。この川を「師団川」といっていました。この師
  団川は子供達の遊び場にもなり、子ども達は、泳いだり、魚を釣ったりして遊びました。また、田畑の
  潅漑(かんがい)にも使えるように、所々に堰(せき)が作られていました。

   ある堰の近くに、大森文作さんという人が住んでいました。文作さんのことを、人々は『文さ』と呼
  んでいました。文さは体が弱くなって仕事ができなくなり、家にいてもすることがないので、いつも、
  家の近くの堰へ行って魚釣りをしました。文さをたずねて行って、家にいなければ、堰へ行けば、必ず
  文さに会えるというほどでした。村の人たちは、その堰のことを『文さの堰』と言って、今でも、お年
  寄りの人の間に、文さの堰ということばが残っているそうです。

   第十五師団が廃止になって、騎兵第二十五、二十六の両連隊が満洲に移ると、その跡に陸軍補充馬廠
  (ほじゅうばしょう)というのができました。ここでは日本中の軍隊で使う馬の調教をして、各連隊へ
  送る仕事をしていました。馬丁(ばてい)さんと調教師(ちょうきょうし)さんがいて、馬の世話や調
  教をしていたのですが、調教という仕事は、危険な仕事でした。牧場から来たばかりの馬は、物に驚き
  やすく、驚くと、とつぜん暴れだすので、棒立ちになった馬からぶり落とされたり、けとばされたりし
  て、死んだり、重傷を負ったりする調教師が一年のうちに二、三人はいたそうです。昔、調教師をして
  おり、中野町に往んでいらっしゃった金沢一子さんは、
  「毎日毎日が真剣勝負でした。うっかりしておれば命がなくなりますからね。」
  と語ってくださいました。特に外地(がいち)へ馬を送る時、小さな舟から輸送船へ馬を乗せる作業は、
  命がけの仕事だったそうです。馬が病気になったり、負傷したりすると、その手当てをしなくてはなり
  ません。現在、中野町にある平南寮(へいなんりょう)のあたりが馬の病院だったそうです。手当ての
  かいもなく死んだ馬の霊をとむらうために、軍隊では、『馬魂碑(ばこんひ)』というのを建てたそう
  です。また、馬魂碑とは別に、馬病観音(ばびょうかんのん)という観音様もあったそうで、今でも平
  南寮の奥の方に残っているということです。

   太平洋戦争は、初めのうちは、日本軍が勝っていましたが、昭和十八年の中ごろから、アメリカ軍の
  方が優勢(ゆうせい)になり、昭和十九年になると、日本の大きな都市がアメリカの飛行機によって爆
  撃されるようになりました。日本の家のほとんどが木造(もくぞう)であったので、米軍の飛行機は、
  焼夷弾(しょういだん)という爆弾を落として、日本の都市を焼きはらいました。昭和二十年になると
  豊橋の空にも米軍機が一機、二機と姿を見せるようになりました。時には爆弾を落とすこともあって、
  四月十五日には、小池町や柳生町あたりに米軍の爆弾が落ちて、四十五軒の家が被害を受け、八人の人
  たちが死にました。四月三十日には山田町、南栄町方面がやられて、四十三戸の被害と八名の死者、五
  月一九日には、花田町中郷と小池町に爆弾が投下されて、一〇八戸の被害と五名の死者がでました。

   こうなると、子供が危険にさらされるので、子供たちを、米軍機のこない田舎へ移すことが始められ
  ました。これを疎開(そかい)と言いましたが、『どろんこ対物語』という本に小池町の細井泉さんは、
  次のように自分の疎開の話を書いておられます。(※一部分引用)

  …………………………………………………………………………………………………………………………
   そのころ、太平洋戦争で日本がだんだん負けてきて、フィリピンでやられ、硫黄島(いおうとう)を
  とられ、沖縄(おきなわ)までアメリカは攻めよせていた。アメリカ空軍は、サイパン島を基地にして、
  B−29というすごくでっかい飛行機を日本の空へとばしてきた。東京や大阪や名古屋をはじめ、日本
  の主な都市に『しょういだん』というばくだんを落として焼きはらった。泉たちが、学校へ行っても、
  朝から空襲警報(くうしゅうけいほう)のサイレンが鳴り、勉強は中止になり、運動場のすみっこにあ
  る防空ごうという穴(あな)の中にすくみこんで、アメリカの飛行機が帰って行くまで待って、通学団
  ごとに家へ帰るという日が多かった。夜になると、まっかに見える空を指さして、
  「名古屋が空襲でもえとるげな。」
  「きょうは、四日市がやられたそうだ。」
  と、大人の人たちが話し合っているのを聞いて、(先生は、日本は負けんと言っとるが、最後にはほん
  とうに勝つだろうか。)と思うようになった。
  「豊橋には軍隊がたくさんおるで、きっと近いうちに空襲があるぞん。福岡は、軍隊の町だで、まっ先
   にやられるぞん。」
  などといううわさを聞いた。

   ある日、泉のおとっつあんは、
  「なあ、泉。お前もわかっとると思うが、戦争もだんだんひどくなってきて、そのうちに、いずれ豊橋
   も空襲されるにきまっとる。お前のようなねぼすけは、うちがもえてても寝とって、焼け死んじゃう
   かも知れん。豊橋が安全になるまで、田原(たはら)のおじさんのうちであずかってもらうように話
   がしてあるで、お前は今日から田原へ行け。学校も田原の学校へかわるのだ。」
  と言った。泉は、学校をかわるのはいやだったが、焼け死ぬのは、もっといやだったので、しかたなし
  に田原へ行くことにした。
  …………………………………………………………………………………………………………………………

   戦争は日本にとって、ますます悪い状況になり、とうとう昭和二十年六月二十日午前零時(れいじ)
  ごろ豊橋の大空襲が始まった。この時のようすを小池町の中野乙司(なかのおとじ)さんは、
  「本町も福岡町も、南小池町も、一面の火の海になった。町内会長の伊藤さんが先頭に立って町内中を
   かけまわり、『逃げちゃあいかん。自分たちの町内は自分たちで守れ!!』と、大声ではげました。町
   内中の人が力を合わせて、自分らもバケツの水で、飛んでくる火の粉を消してまわった。そのおかげ
   で、当時、わら屋根であった今の総代中野恵夫(しげお)さんの家と、となりのわしの家と、南小池
   に近い、留守(るす)の家一軒を焼いただけですんだ。」
  と話してくれました。

   昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争は、昭和二十年八月十五日、日本の無条件降伏で終わり
  になりました。そして、日本の国には、軍隊がなくなり、軍隊のあった跡へ、多くの学校ができて現在
  のような文教地区になったのです。

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