福 岡 小 学 校
  地 域 紹 介


古くからのお宮   言い伝え   町名の由来   むかしばなし   六十の市


柱地区   小池地区   小浜地区【中野校区】

橋良・柱(ハシラ)
 
 寛和のころ、京に住んでいた貴族(なんとかの監物)が急に東国の役人として、任地へ
下ることになりました。この時、京の西の岡に住んでいた奥方は身ごもっていて、一緒に
行けませんでした。
 
 夫が旅立った後、奥方は夫を恋い慕って付き人の都築衛門夫婦を伴って旅に出ました。
遠く離れた東国への旅路は、女の足では無理なので、伊勢から船で渡ることにしました。
船が湊を出ると間もなく暴風が起こり、吹きもどされて橋良の浜(今の第一公園あたり)
に流れ着きました。奥方は疲れがひどくとても衰弱していました。衛門夫婦は、楓の木陰
に奥方を休ませると飲み水をさがしに行きました。大きな柳の木の下にきれいな清水を見
つけてさっそく汲んでもどり介抱しました。船頭たちも、奥方がお気の毒だと言って船の
古材を集めて来て仮小屋を建ててあげました。奥方は、仮小屋でしばらく暮らしているう
ちに生み月となり玉のような男の子をお産みになりました。
 
 大きな楓の下でお生まれになったので、香延手丸と名前をつけてお育てになりました。
間もなく奥方に抱かれ、衛門夫婦に守られて父親の住む東国に旅立って行かれました。残
された仮小屋は年月とともに壊れ、腐っていきましたが、柱だけはいつまでも立っていま
した。そこで、この地を「はしら」と呼ぶようになりました。
 
 昔は「波志良」とか「橋良」と書きましたが、昭和初期の区画整理後に「柱」と改めら
れ、柱一番町から柱九番町に区分けされるようになりました。

 

郷(ゴウ)
 柱の集落があった地区で、柱一番町や富本町あたりを東郷、柱二番町辺りを中郷(中柱)、
柱三番町辺りを西郷と呼んでいました。他にはあまり家はなかったようです。

 

向(ゴウ)
 
 なまず池の東のほとりにあった集落を「向」と言って数軒の家がありました。柱の本郷
から見て南側にある集落で、少し高い台地にあったからです。
 
向 山(ムカイヤマ)
 
 中野小学校のある辺りは「向山」と言われました。この辺りでは一番高い所で、柱の郷
らはこんもりと山に見えたからです。

  

矢根谷(ヤネヤ)
 
 「屋根谷」「八根矢」といろいろな書き方がされていますが「ヤネヤ」と呼んでいます。
八本の折れた矢の根元が流れ着いたところから「八根矢」と呼ばれるようになったという
ことです。

 

観音寺(カンノンジ)
 
 柱第一公園の辺りは「観音寺」と言われていました。この辺りに錦葉山観音寺という古
い寺があったからです。

 

荒神場(コウジンバ)
 
 柱七番町から柱二番町にかけての広い地域を「荒神場」と言っていましたが、古くは、
「皇神場」と書いたそうです。この地は、昔、伊勢神宮の御厨があった所で、「皇神」と
は伊勢神宮を意味していたのです。それが、いつしか農業の神様である「荒神」にすり代
わり「荒神場」になったのだと言われています。この荒神場の東に御厨との境を示す「御
支切」と言われる所が柱八番町辺りです。

 

鳥 居(トリイ)
 
 橋良神社の南の地区(柱七番町)を「鳥居」と言いました。昔、そこに橋良神社の一の
鳥居が建っていたそうです。この西に小浜地区の「西鳥居」という小字がありました。
 
 
堂 坂(ドウサカ)
 
 現在も堂坂という地名が残っていますが、昔、観音寺があったころ、寺の北に観音堂が
あり堂の裏は崖になっていました。観音堂の裏の坂にあたるところから「堂坂」と言われ
ました。
 
 
藪 下(ヤブシタ)
  
 柱の郷の北側は崖になっていて、その斜面は竹藪となって屋敷森のようになっていまし
た。今は、柱コーポの裏にわずかに残っていまだけですが、この竹藪の下という意味です。
 
 
大深田(オオフカダ)
 
 大昔は海だった所で海抜3メートルくらいの低地です。台地からの地下水が湧き出る清
水が田のところどころにあり、中でも「中桶」と呼ばれる田井戸は一帯の田を潤していま
した。田は4・5mの丸太ももぐってしまうほどの深田で、太い丸太を組んで田に沈め、
その上に乗って作業をしたというほどです。しかし、今は埋め立てられて大きな商店や家
が立ち並んでいます。
 
 
坂 下(サカシタ)
 
 富本の照国神社の裏は急な崖になっています。この急な坂の下にある地というところか
らつけられたのです。
 
 
小 池(コイケ)
 
 小池神社の南に田井戸があり、そこはきれいな清水が湧き、池になっていました。その
小さな池のある村というところから「小池」と呼ばれるようになったと言います。

 

安海戸・西海戸(アンカイト・ニシカイト)
 この地名は今も残っていますが、海辺の集落という意味で、この辺りを「潮崎」ともい
っていたそうです。西海戸には、海辺にゆかりのある名称の「潮満山観音寺」もあります。

 

曲田・上田・角田・鴨田・深田(キョクダ・ジョウダ・カクダ・カモダ・フカダ)
 
 昔の田原街道の西側一帯は、一段と低くなった低地で、大昔は海であったと言われる水田
地帯でしたが、埋め立てられて住宅や店が立ち並んでいます。Aコープの辺りは深田といわ
れ、清水の湧く田井戸もあって腰ほども沈む深田であったそうです。田井戸などに鴨が飛来
したところから「鴨田」とよばれたのかも知れません。
 
堂 浦(ドウウラ)
 
 潮満観音(潮音寺)の北裏の所を堂浦とよんでいます。大昔この辺りは海辺であって、観
音堂の裏側にある海辺(浦)というところから付けられたようです。

  

上の山(ウエノヤマ)
 
 小池から見ると、一段と高くなっている岡で、龍拈寺の三味があり、草や木が生い茂った
さびしい所でした。山の西側を田原街道が通っていましたが、明治の末に東側にも軍隊用の
広い道路が抜けてから辺りに商店が立ち並び一変してしまいました。今は福岡町となってい
ます。

 

寺 坪(テラツボ)
 
 愛知大学の北門の前辺りを「寺坪」と呼んでいました。昔は、馬捨て場があり、潮音寺の
土地が多くあったそうです。

 

坂 口(サカグチ)
 
万福寺やその近くを「坂口」と呼んでいました。小浜の集落から八幡山や磯辺の郷へ向かう
道の登り口(坂口)にあったところから付けられたのです。

 

九 郷(クゴウ)
昔、吉田神社が勧請した時、この地に一夜を過ごし里人がこぞって供物を神に捧げた郷とい
うことで「供郷」と呼ばれ、いつしか「九郷」にかわったということです。

 

山 際(ヤマギワ)
 
昔、今の西小浜に対し山のふもとにある東小浜の集落を「山際」と呼んでいました。この辺
りは段丘にあり、南東側は深い森林になっていました。
 
狐 穴(キツネアナ)
 
山際である東小浜一帯の段丘の崖に狐が巣を作ってたくさん住んでいたそうで、このような
地名がつけられたのです。

  

山 下(ヤマシタ)
 
 小浜街道の下にある東小浜の旧集落の辺りを「山下」と呼んでいました。荒切、切払など
が山であったころ向山なども含めて、それらの山の下にある土地という意味です。

 

荒 切・切 払(アラキリ・キリハライ)
 
 山林であった所を開墾した土地という意味で、ほかに「新切」などとも言われ、いずれも
山林を新しく開墾した土地に付けられる名前です。「荒切」などは、切り株は残したままの
そのあたりを耕しただけの畑などにも付けられるようで開墾の途中の土地のようです。



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