福 岡 小 学 校
  地 域 紹 介


古くからのお宮   言い伝え   町名の由来   むかしばなし   六十の市


十三本塚のいいつたえ  ・矢塚  ・経塚  ・赤石様

天王岩  ・潮満観音  ・柱の石造観音

ポッチの池  ・柳清水(柳蔭の泉)  ・御井戸と小井戸


   戦国末期、吉田をめぐるはげしい攻防戦のさなか、これにまつわる痛ましい伝説がある。
  今川義元が桶狭間で敗死した後、東三河の勢力は松平元康(家康)今川氏真に二分された。
  その間、元康に従う者が続くのを見て、氏真の城代小原鎮実は吉田城に人質としていた武将の
  妻十三人を見せしめのために殺害した。遺体は中野新田に葬られ、そこを十三本塚と呼んだと
  いう。

   村絵図によると正林寺の東方に確認でき、江戸末期には八つ程の塚が並んでいたという。
  一方、富本町の向坂家には十三本塚と呼ばれる塚が存在する。
   文献には、城主小笠原の時代に、罪人が槍を十三本うけるまで死ななかった事に由来すると
  ある。また、この塚は姫塚とも呼ばれ、小笠原によって殺された犠牲者の一人、浅羽三太夫の
  姫を祀ったものとも伝えられている。

   なお、高師口の交差点の角に「奉納大乗妙典 右大崎・左田原道」と刻まれた石碑がある。
  これは、旧田原街道の小池の坂を登り切ったあたりに立っていたもので、道標と十三人の人質
  の霊を慰める供養塔を兼ねたものとも伝えられている。

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   現在の第一公園の辺りに、昔、錦葉山観音寺(南朝方に味方をして焼かれた)という寺があ
  り、その境内に「矢塚」と呼ばれる塚があったということです。明治の初めまでは畑の中に、
  5尺四方、高さ3尺ほどの塚が残っていたそうです。

   南北朝の初め(1338年)、足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は、吉野にこもって勢力の挽回
  を図っていました。そこで、奥州に勢力を持っていた北畠家を拠点に、南朝の力を強めようと
  考えました。後醍醐天皇は、7歳になる皇子を元服させ、北畠親房の子顕信を皇子の補佐とし、
  結成道忠を衛尉(朝廷を守る長官)として奥州へ向かわせました。

   伊勢の大湊から500艘ほどの兵船をたてて出航したところ、遠州灘で急に天候が変わって
  大風が吹き荒れました。皇子の御座船も大波にもまれて今にも転覆するかと思われました。
   その時、突然御座船の前に真っ赤に輝く太陽が現れたかと思うと、風向きが急変して、伊勢
  の海に吹き返されてしまいました。皇子たちは伊勢の神風の浜に流れ着いて助かりました。
   しかし、大半の兵船は難破し、おびただしい兵士の死体や武具が伊勢の国より東の方の浜に
  打ち寄せられました。その時、柱の観音寺近くの浜辺に折れて根元の方ばかり8筋つらなった
  矢が流れ着き、その近くに矢を入れる道具の靱も流れ着きました。

   村人は、それらの品々をただものではないと思い、観音寺境内の地中に納め、しるしに塚を
  築きました。そして、「矢塚」とよんで大切に守ってきました。


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   小池一番町辺りは、昭和の初めまで「京塚」と呼ばれていました。これは「経塚」というの
  を嫌って「京塚」の文字を使っていたようです。昭和初期の区画整理の時に塚が壊されて道路
  になりました。

   昔、旅をしながら修行をしていた一人の坊さんが、小池の村にさしかかりました。ちょうど
  真夏の頃であったので、のどが大変渇いておりました。一軒の百姓屋に寄り、水をひとくち飲
  ませてくれるように頼みました。
   ところが、長い旅で身なりはすっかり汚れ、あまりもみすぼらしいので、その家の嫁は一滴
  の水も与えずに追い出してしまいました。次の家もやはり同じでした。坊さんは村人の信心の
  薄さに嘆きながら村を立ち去りました。

   その坊さんは、新吉町の竜拈寺や豊川の妙厳寺、越前の永平寺などで修行を重ね、高い位の
  坊さんになりました。偉くなった坊さんは、5人の坊さんを従えお駕籠に乗って江戸に帰る途
  中、また小池の村を通りかかりました。すると、あの二軒の百姓屋がそろって葬式を出してい
  ました。

   あの百姓屋の嫁が、二人とも変な病気にかかり、いくら水を飲んでものどの渇きが治らず、
  気違いのように水を欲しがってとうとう死んでしまったというのです。お坊さんはふびんに思
  い供養のためにねんごろにお経を上げ、そのお経を地中に納めて塚を築きました。

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   昔、今の柱三番町の「ネッツトヨタ」の辺りに塚がありました。この塚は、身分の高い皇子
  を葬ったところだと言われ、「王塚」と呼び、この辺りを「王塚」とも言いました。300年
  ほど前までは塚の形をしていましたが、塚の松が枯れ果ててからすすきや萱が生い茂っていま
  した。荒れ果てていたのでそのうちに耕して畑にしてしまいました。すると、恐ろしいたたり
  が起きました。あわてて元のように塚を築き直しましたが、時がたつと知らずにまた塚を壊し
  てしまったのです。今度もやはりおそろしいたたりがありました。

   そこで、塚に印の赤い石を立て、小さなほこらも作ってまつりました。それ以後、石に触れ
  るだけでもおこり(熱病)が出ると村人から恐れられてきました。しかし、時がたつにつれ、
  それを信じない若者も出てきました。

   ある時、赤石様の横に道を作ることになり、工事が始められました。赤石様を信じる人は、
  たたりを恐れて工事を嫌いましたが、信じない二人の若者はわざと踏んだり蹴ったりしました。
  すると、その夜二人の若者は高熱を出して、三日三晩もがき苦しみました。それを見た家族は
  もちろん村人は赤石様を元にもどして、一心に拝みました。そのかいあってか、熱がすっと退
  いて命が助かりました。しかし、この赤石様は柱の正光寺の門前にある観音堂の隅に移され、
  村人からも忘れられてお参りする人もなくなってしまいました。

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   小浜町の万福寺本堂の北西の竹藪の中に、「天王岩」と呼ばれる塚石があります。この岩は
  昔、本堂前の広庭にありましたが、いわれを知らない者がただの庭石と思って、無礼なことを
  するので、現在地に移してしめ縄をかけて大切に扱うようにしたそうです。

   この岩は「天王岩」と呼ばれるように、関屋町の吉田神社と深い因縁があります。吉田神社
  が神を初めて勧請する時、小浜の小座口まで神が船で来られ、万福寺の広庭にあったこの岩に
  お輿をすえて休まれ、一晩お祝いをしました。里人は神を迎えて大喜びし、お輿の前に山のよ
  うなお供え物を捧げてお参りしました。次の日、里人はにぎやかにお輿のお供をして吉田まで
  行きました。

   これより毎年、吉田神社の祭礼には、小浜のの里人たちがお輿の供ぞろいのお道具を準備し、
  獅子をかぶり笛や太鼓を吹き鳴らしながらお輿の供をして吉田まで行くようになりました。
  しかし、その行列もずっと昔に途絶えてしまいました。

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   昔、小池というさびしい海辺の村に一人の見すぼらしい坊さんがやって来ました。村はずれ
  の小高い丘の上に小さなお堂を建て、長音寺と名付けて熱心にお勤めをしていました。けれど
  も、みすぼらしい寺なので村人はだれもお参りに来ませんでした。

   ある時、さびしくなったお坊さんが寺の丘に建って海を眺めていると、岸辺近くの水中に何
  かきらきら光る物があります。近づいて見ると仏像のようです。お坊さんが驚いて拾い上げて
  みると、立派な観音様でした。さっそくお堂に安置して一生懸命お参りしました。

   その話を伝え聞いた村人が次第にお参りに来るようになりました。それから間もない、ある
  年の7月9日にこの地に大地震が起き、大きな津波が村々を襲いました。その時村人は、日頃
  信仰する観音様におすがりしようと長音寺に集まり一心に拝みました。不思議なことに、さす
  がの大津波も長音寺の下までくるとぴたりと止まり、村人はみんな助かりました。村人たちは、
  観音様のお加護とますます信仰するようになり、塩満観音と名付けて立派なお堂も建てました。
  津波のことを忘れず観音様にいつまでも感謝し続けるようにと、7月9日を塩満観音の祭りと
  しました。その祭りは今日も続き大勢の参拝人でたいそうにぎわうそうです。

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   昔、観音寺という大寺がありました。しかし、南北朝のころ、寺の坊さんが南朝方に味方を
  したために北朝方の軍勢によって寺は焼かれ、つぶされてしまいました。その後、お守りする
  人もないまま、寺の隅にわずかに残っていた堂も荒れ果ててしまいました。通りかかった旅の
  僧が、観音様を気の毒に思って村人から譲り受け、郷里の富士のふもとへ持ち去りました。観
  音様がなくなるとさびしくなった村人が石で観音像を造ってお堂にお祭りしました。しかし、
  小浜の方に移った村人がそのお堂を小浜に移してしまうと、石の観音様がそこに残されてしま
  いました。

   時が流れ、いつしかその石の観音様は草にうもれ、村人からもすっかり忘れ去られてしまい
  ました。ところが、橋良村に働き者でとても信心深いお百姓さんがいました。いつごろからか、
  そのお百姓さんは足が痛むようになり、いろいろ手当てをしましたが、いっこうに治りません
  でした。

   朝晩、神棚や仏壇を拝んでいると、夢に観音様が現れ「草に埋もれた無縁仏や観音様を掘り
  出して供養しなさい。」とお告げになりました。お百姓さんは、ほうぼうを捜し回ってやっと
  観音寺跡の草むらから観音様を見つけ出し、小さなほこらを建てお花やお線香を供え、毎日お
  参りしました。すると、足はすっかり良くなりました。それを聞いた村人もだんだんお参りす
  るようになり、お賽銭もたくさん上がるようになりました。

   そこで、村はもっと立派なお堂を建て、みんなでお祭りすることにしました。ところが、そ
  こに柱第一公園ができたために観音様は柱の正光寺門前に移され、三十三観音に守られるよう
  に観音堂の中央に安置され、今も多くの人々にお参りされています。

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   柱保育園の南にある大池のすぐ東に、それより少し小さい池がありました。その池はよそか
  ら水を引いてくるのではなく、湧き水が溜まるようになっていました。いくら日照りの時でも
  水が枯れることはないというほどよくわき出る清水がありました。しかし、今は埋め立てられ
  て住宅や店が建っています。

   大昔、この村にダイダラポッチというものすごい大男がやってきました。村に用水がなくて
  田が作れないと聞くと、「それなら池を作ってやろう。」と言って辺りで一番低い土地を選ん
  で、大きな足でぐいぐい踏み込むとそこに大きな足跡ができました。すると、底からこんこん
  と清水が湧き出て低い土地一帯が池になってしまいました。それ以来池の水はかれることがな
  く、日照りの心配もしなくてよくなりました。

   ダイダラポッチの足跡からできた池なので「ダイダラポッチの池」と呼んでいましたが、い
  つしか「ポッチの池」と呼ぶようになりました。

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   橋良神社の西方に「柳清水」という田井戸がありました。
  70年くらい前は大きな田井戸できれいな水があふれて、ふなやどじょうなどの魚もたくさん
  住み、夏は子どもたちのよい遊び場でもありました。また、橋良神社御手洗としても使われ、
  神社で使う水はここからくんできました。大昔は、「柳蔭の泉」とも呼ばれ、そばに大きな柳
  の木が立っていてよい木陰を作っていました。

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   南北朝の頃、後醍醐天皇の皇子で、後に後村上天皇になられた方が小浜の万福寺にしばらく
  滞在しておられたと言われています。

   万福寺には、昔、「御井戸」と呼んでいた古い井戸がありました。この井戸は尊い身分の皇
  子が使われた大切な井戸だというので、「御井戸」といって特別に扱ってきました。
   また、万福寺の北にある小浜神社の西には、「小井戸」と呼ばれる井戸がありました。皇子
  の家来や里人が使っていたので「小井戸」と呼んで、「御井戸」と区別していたそうです。

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